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気づかせる

物事を習得しやすい状況をつくるには、教えるのではなくいかに自分で気づけるかが大事です。
自分で気づいたことは教えられたことより定着率が高いです。

将棋の故大山康晴十五世名人はアマチュアの指導に定評があったといいます。
指導対局では、相手に有利な局面にわざと導き、好手が出やすいようになさったそうです。そうしておいて、「あっ、飛車があったか・・・」などと独り言をつぶやいたとか。独り言を装って、さりげなく相手に「次にいい手があるよ」「よく考えてね」と伝えたわけです。

こういう工夫を、教える立場の人は常に考えなくてはいけません。
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「おおあめ」の「おお」はなぜ「大」?

子どもが質問します。
「おおあめ の おお は 大? 多?」

「大だよ」
と答えればすぐ済みます。
しかし、これでいいのでしょうか?

前項の「大事なのは、答えではなく問い」の続きです。

「おおあめってどんな雨だろう?」
「ザーザーいっぱい降る雨」
「ザーザーいっぱい降る雨は、大量の雨? それとも多量の雨?」
「わかんない・・・」
「わかんないよね。こういうとき”大量”か”多量”かは、ルールがあるんだって。だから、そのルールをおぼえておこう」
「うん」
「めちゃめちゃいっぱい、どれくらいか分からないときは大量。多いけど、測れそうだなってときは多量。だから、雨がどれくらい降ったかもう分かんないってときは?」
「大量」
「そう、大量の雨だから、大雨。では、鼻血がいっぱい出たときは、大量? 多量?」
「大量!」
「鼻血はいっぱい出ても、何㏄出たかとか、測ろうと思えば測れるよね」
「じゃ、多量?」
「そう、”多量の鼻血が出た”。大量の鼻血はヤバい。どれだけ鼻血が出たか分からいなんてときは、もう救急車を呼ぶしかない」
「死んじゃうかもね」
「では、お寿司をたくさん食べたときは、大量? 多量?」
「多量!」
「うん、正解。でも、”大量にお寿司を食べた”も間違いではない」
「なんで? お寿司は数えられるよ」
「大げさに言うときは、大量を使ってもいいんだ」
「大げさに言うって?」
「死ぬほどお寿司を食べたとか。死ぬほどっていうけど、お寿司を食べすぎて死んだ人とか聞いたことある?」
「ない」
「表現するときには、そういう大げさな表現を使うときがある。昔、中国の詩人がもうワシはじいさんになって白髪が”三千丈”も伸びちゃったよー、と言ったの。三千丈って、長さで言うと9キロメートル」
「9キロメートル!」
「そんな、バカな!? というハナシだよね。でも、それは大げさな”表現”ということでアリ」
「ふーん」
「言葉には、正しい正しくないということと、表現としてアリかナシかという二つの物差しがある。そこが言葉の難しいところ」


というふうに噛んで含めれば、「大量と多量」が一生身に付くと思いませんか?

学びは「体験」にしなくてはいけません。
どんどん漢字を機械的に書いて、どんどん計算問題をこなしていく、そういう学習法は嫌いです。いや、私の趣味嗜好ではなく、本当に考える力が身に付かないと思います。


大事なのは、答えではなく問い

子どもに答えを教えるのはカンタンだ。誰にでも出来る。

しかし、受動的に教わった答えは身に付かない。
良い指導者は、答えを導き出す「問い」を出す。その行為をファシリーテーションと言っても良い。
上手に教えられる人は、有能なファシリテーターでもあるのだ。

それが子どもに対して出来るかどうか。
それをファシリテーションの環境の中で教わることが出来た子どもは幸せである。

サッカーの試合などで、ヒステリックに1~10まで指示を出しているコーチいますよね。あれでは、子どもは自分で考えません。伸びません。日本には、残念な指導者がまだまだ多い。

いかに教えないか

大人が費用対効果ばかり気にするので、自然、子どももそういう指向になっています。
何かをはじめるとき、「それをやって何になるの?」と訊く子がいます。一瞬、イラっとしますが(笑)、これは将来こういう時に役に立つよと、まずはそれから教えないといけないようです。もちろん反論する子もいます。たとえば英語であれば、「あ、ぼく外国行かないから」といった具合に。

大人が良かれと思って教えていることに、それはどんな意味があるんですか? などと私が子どものころは考えもしなかったと思います。まあ、いまの親がそうだから、子どももそうなのです。

そういう前段階があるにしろ、物事を教えるときにいちばん大事なのは”いかに教えないか”だと思います。
答えは大人が示すのではなく、子どもが発見する。大人はそこへ導くのみ。これが、子どもが物事を吸収するときに最も力があるメソッドだと思います。
授業は退屈でも、自分で調べたり作ったりするのはみんな好きです。能動的に「気づく」「発見する」ことを、子どもにトライさせることが学ぶ意欲を生み出します。ここが大人のガマンのしどころです。教えたいところをじっくり待つ。わざと間違ったことを言ったりして、子どもに正解を気づかせる。分からないふりをして子どもに優越感を持たせる。などの工夫が必要なのです。

一方で、人の話をじっと聞くのがいまの子たちは下手です。呼気と吸気のバランスみたいなところから調べたほうがいいかもしれません。とにかく、それは今後の課題です。

先行教育の欺瞞

「この漢字知ってる!」「この計算やったことある!」と得意気になっている子がいます。
ドリルなどでの先行学習のおかげでしょう。その時は優越感があり、自分は勉強が出来ると思い込みます。そういう「思い込みのためにやっている」ならそれで結構ですが(笑)。はたしてそういった先行学習に弊害はないのでしょうか? まず小学校の先生はイラっとするでしょうね(笑)。「このタイミングで教えて、このタイミングで憶えてほしい」のに、あー、それもう知ってる!などと言われては。
そうです。ものには「習得するべきタイミング」というものがあるのです。小学校の教育カリキュラムをナメてはいけません。2年生に習う漢字は2年生で憶えればいいのです。そして、そのタイミングで憶えるからこその身に付き方、ある種の巡り合い、そして新鮮な感動があるのです。そういう子どもの虚心坦懐な気持ちや感動を奪っている、だけでも相当な弊害があるのではないかと思います。

そうい意味で先行教育は無用です。自分の子が、計算が遅れている、漢字が書けない、などと他の子と比べたりする必要もありません。そのうち誰でも出来ます、書けます。
大人になって計算が出来ない人が、漢字が読めない人がいますか? あ、たまにいますね(笑)。でも、それは先行教育をしなかったらからでしょうか? 違いますよね(笑)。
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